四号バンガロー


 旅というのは、古くから人間にとって最も身近な現実逃避だろう。色々なものに追われる毎日から逃げ出して、勝手気ままに旅をする。
ただ一つ、泊る所だけは決めて。私はそんな旅に、常に憧れていた。どこからか帰ってきては仕事に従事し、それが終わっては再び旅の空となる。
それがこの上も無く楽しくなっていたのだ。
 仕事、私の仕事というのは小説を書く事であった。それだから旅という刺激は実にいい影響をその作品たちに与えていた。
旅先で一言、「小説を書いているんです」と言えば、逗留先の宿主はその土地の面白い話をしてくれる。
奇怪な話、伝承を話してくれる老人も少なくない。時にはもっと興味深そうに、どんな話を書いているのか尋ねてくる人もいる。
しかしそんな時、私は戸惑いながら旅の小説と答えていた。
 嘘でもないが、真実でもない。というのも、私が書いているのは、当然のように人の死んでしまう、推理小説であった。
旅で思いついた話は、そこを舞台にして記した。だから旅の小説というのは間違っていないのだが、如何せん人が死ぬ。
人が死ぬ話となると、気味悪がられる。いつしか私は推理作家だと名乗らず、旅作家として旅をするようになっていた。
 そんなある日のこと、私は珍しく推理作家となった。それは四国の清流のほとりに宿を置いた、九月の夜のことであった。
 虫はさんざめき、川は流れ、月は出ず、星はひかり、この夏にしては珍しく過ごしやすい夜になっていた。もうすぐ夏が終わる。
そんな象徴のような夜。私は河原に腰を下ろして星めぐりをしていた。
 こんな夜でもこの清流のほとりに位置するこのバンガローに人はいて、眼下に見える河原ではバーベキューをしているのか、
肉の焼ける、食欲をそそる匂いと共に女子たちのキャッキャという声が、おりからの撫でるようなそよ風にのって私の頬をくすぐっていた。

 バンガローでの夜はこの旅で一番の楽しみだった。このあたりで宿泊しようと思うと、丁度ここのバンガローが安く取れると知った。
チェックインの時間が夕方しかないから、早めにつくと荷物を置いて清流をぶらぶら。このあたりの橋は皆、沈下橋という。
欄干も何も無く、ただ白線だけ引いてある簡素なコンクリート橋のうえで、学校帰りの小学生が度胸試しに飛び込むのを見ていた。
 秋の空はつるべ落とし。
 日も暮れてバンガローに戻ると、あらためてその内部の探索に勤しんだ。こんなバンガローに泊まれるのは珍しい。
ぜひ小説の舞台にしようと思っていたのだ。
 いったいどうしてこのバンガローが格安なのか。私は旅に出るまえから疑問でしょうがなかった。予約サイトの情報によると室数が限られている。
ワケありとあった。何か居てはいけないものが出るのだとしたら……。それは恐ろしいが小説家冥利に尽きるではないか。
何よりも、ワケありという恐怖はバンガローという珍しい宿泊施設への興味の前においては無に等しかった。とにかく興味深い。
私はすぐさま予約を取ったのだ。
 それが今更のようになって、心に引っかかっていた。なるほど、たしかにこのバンガローは他のバンガローと比べて管理棟から離れている。
管理棟の対岸に位置するのだ。トイレやシャワーは管理棟にあるものだから、いざトイレに行きたくなると不便である。
でも川を渡る橋はすぐ近くに存在する。それに長さもあまりない。だからちょっと暗いのを我慢すればそれだけでいい。
そんなことだけで他のバンガローの半額になっているとは、やはり別に何かいわくがあるのだろう。
 ああ、四号バンガロー。私の泊まったそのワケありのバンガローは、日本人にとって忌番とされる四の数字を掲げていた。
 バンガローの中はくすんだ赤色のカーペットが敷かれ、コンセントがいくつか。冷蔵庫が一つ、ストーブが一つ、それと小卓に布団一式。
扉の横には少し大きな鏡付きの洗面台。と、最低限のものしかなかった。天井からは電球と、虫除け用の薬剤がぶら下がっている。
扉の反対側には木造りのベランダもあり、すぐ下には清流がほとばしっている。
 何か事件を起こすには恰好の建築であった。
 布団を敷いて少しの間寝転がっていると、冷蔵庫の上になにかが乗っているのに気がついた。
体を起こすのも億劫に、手を伸ばしてみると、それは一冊のノートだった。
 宿によっては宿泊者が旅の思い出をつづるノートというのが置いてあるのだが、このノートはそういった類のものにしては
至極わかりにくいところに置かれていた。それだからノートのはじめは三年ほど前になっているのだが、
まだあと二、三ページほど空白のページが残っている。
 今私は、そのノートに書いてあったことに、思いをはせている。そのノートには私の興味をそそるに十分な逸話が記されていたのだ。

 それはいつの話だか分からない。しかし、ノートのはじめの方に書かれているのだから、少なくとも三年前の話だろう。
 この地に宿泊した一組の男女が居たという。男の方はやけどをしたのか、顔に包帯を巻き、それを見られるのを恐れるように
つばの大きい帽子をかぶっていた。それに対し女の方はガラスのように繊細で、絹のように白い、非の打ちどころのない美人であった。
 二人は夫婦なのか、手を取り合ってやってきたという。それはしかし、全く対照的な夫婦であった。誰の目にもそれは奇異に映っていた。
女は男に尽くしていた。常に何か何かと先に立ち回るように行動していた。男は包帯から二つ覗いた目を、その度に迷惑そうに動かしていた。
 しかし声に出すことはない。
 その二人は二、三日この四号バンガローに逗留していたという。しかし昼になってもどこかに出かけるわけでもなく、
ただバンガローの中に閉じこもったきり。ただ夕方ごろになると、女の方がこっそりとバンガローをはなれて食料を買ってくる。
 当然噂はすぐに広まった。人の口に戸は立てられない。表面旦那に尽くしているようで、実際はあの夕方、
どこか愛人を求めて外に出ているに違いない。そういえば自分も、あの奥さんがいそいそと橋を渡っていくのを見た。
あれはこれから逢引をしに行く小娘のようだった。地元の住民はそう囁いていた。
こんなことが長続きするはずない。いずれ破局が訪れるに違いない。そう言う者まで現れたという。

 ある朝、まだ日も上がりきらぬ明け方。近所の老人が犬の散歩に橋を渡っていると、淵の中に浮き沈みする何かを見つけた。
なんだろう。老人は橋の上から懐中電灯を当てた。さっき沈んだばかりの何かは、なかなか浮かんでこない。
一瞬、二瞬。懐中電灯を握る手が汗ばんだ。そこにふわりと浮かび上がってきたのは人間の足だった。
 はたして、破局は訪れた。
 通報があって警察が駆け付けてみると、死体は丁度浮かんだところで、体には解けた包帯が絡み付き、ベールを脱いだ男の顔はやけどの跡も生々しく、
水にふやけ、見るに堪えない肉塊であった。
 妻はと言えば、そのバンガローの鍵を持ち出したきり、以来行方が知れぬという。
 田舎の人間というのは迷信深いもので、いつかどこからか、誰も泊っていないはずの晩に四号バンガローで灯りが見えた。
あるいは、あの女にそっくりな人をバンガローの近くで見た。そういえば、あのバンガローで誰か男と女が会っているらしい。
そんな噂が立つようになった。
 だから、その女は逢引の場に邪魔となる夫を殺して、このあたりに潜んで、今も時々、四号バンガローで逢瀬を愉しんでいるのではないか……。

 やっぱり、四号バンガローはいわくつきのバンガローだったのだ。私はこれを読み終えた瞬間、誰かが背後にいるような感覚に襲われた。
いったい、これほどよくできたお膳立てがあるだろうか。川向こうの逢引の場所。そこで起きた犯罪。淵に浮かんだ死体。
私の創作意欲は一気に高まったのだ。この事件をベースにして何かを書こう。
 対岸にある共同浴場をあがって、涼みながら土手に腰かける。私の脳内は様々な思考を試みていた。
星と星をつなぎ合わせて星座を作るように、男と女の関係を空想していた。
「あの、すみません」
 突如、その幻想は一人の少女によって破られた。
「あ、ああ、どうしました」
 虚を突かれた私は、どぎまぎしながらその少女を見上げた。河原のほうからやってきたようで、顔をあげると、丁度少女と目線が交差した。
手には紙製の皿を持っている。
「あ、驚かしちゃいました? すいません。あの……これ、食べませんか?」
 少女は申し訳なさそうに笑うと、私の前に皿を差し出した。皿の上には程よく焼き目のついたカボチャと肉、獅子唐に茄子が盛りつけられていた。
私が目を丸くしていると、少女はくすぐったそうに笑った。
「ああ、突然ですみません。いやぁ、むこうのほうでバーベキューをしているもので。おすそわけですよ」
 それは言われなくても分かっていた。ただ私は、この土手に一人ぽつねんと座っている男、
すなわちこの私に少女が話しかけてきたことに驚いていたのだ。
「ああ、ありがとう。いただきますよ」
 私は我に返ると、少女の差し出すさらに手を伸ばした。少女はそれが私の手に渡ると喜んだようで、ひらりと私の横に腰を下ろした。
少し伸ばした髪のなびく間から、ほのかな金木犀の香りがした。
「いやぁ、すみません」
 少女はそう言うと、何を恥ずかしがっているのか、頬を染めて頭を掻いた。せっかくの髪が少し崩れた。
それでも少女はお構いなしに、川の向こう岸を遠く見つめた。
「いいんですか、戻らなくて。お友達むこうでしょう?」
 私がそう言うと、少女はもう一度微笑んだ。
「いいんです。十分楽しみましたから」
「はぁ」
「それに、前来た時も、ここにこうして座っていた人が居たから。なんだか懐かしくなっちゃって。そう、一昨年かな。
私、ここに来ていたんです。高校の友達と」
「はぁ、一昨年」
 私は少女の問わず語りにどう返せばいいか困惑していた。それでも不思議と彼女が私を引き付けるのはなぜだろう。
私は別に嫌な気分にはならなかった。逆に彼女が語るならば、それに任せておきたい気持ちもあった。
どこか、自分に似た孤独を彼女から感じ取ったからかもしれない。
「ああ、そういえば、あなた、どちらにお泊りですか?」
「私? 私は向こう岸の、ほら、あそこに見える四号バンガローですよ」
 すると少女は、ほぅ、とつぶやくと、なんだか楽しそうに笑った。
「どうされたんですか? ああ、やっぱりご存知ですか、あの四号バンガローにまつわるお話」
 私もすこしいい気分になって口が動いた。いつの間にやらこの少女に対する警戒心は消え失せてしまった。
少女もそうなのか、いや、この少女に限っては端から私に警戒心など持っていなかったようだ。
相変わらず屈託もないこの少女は、なにか面白いことを見つけたように笑っている。
「あのバンガローにまつわるお話……。それは、ひょっとしてあの包帯の男のお話ですか?」
「ああ、じゃあ、あのノートをご存じで。ええ、まあ、ちょっと気になったもんでね」
「それで、あなたは気味が悪くならないんですか?」
 少女は微笑みながら私と顔を合わせた。
「いやぁ、私ね、小説家なんですよ。だから、あれを読んでね、意欲が沸いたんです。それで話を練っていたんですな、この土手でね」
「へぇ。それで、どうです、できそうですか?」
「いやぁ、そんな持ち上げられても。まだ全然ですよ。思い立っただけ、書けるかはわかりませんね」
「それじゃあ先生のこと、お邪魔しちゃったかな」
「せ、先生だなんて、そんな。三文文士ですよ。それに、人殺しの話で儲けるような人間じゃあ、先生と呼んじゃいけませんよ」
 私は自嘲気味に笑った。すっかり解かれた警戒は、私を久しぶりに推理作家にしてしまった。それでも少女は、気味悪がるどころか、
余計に興味深そうに、私の方に寄ってきたのである。
「先生。それでも私は先生って呼ばせてもらいますよ。なんたって、先生、推理作家だったら私の話、きっと参考になると思いますよ」
 少女は嬉々としてそう言った。そう言って腰を浮かせ、ヒョイと私にもう少し近づくと、あらためて遠く、川向こうのバンガローを見つめた。

 ぐぅ。

 はっと少女の顔を見ると、少女は恥ずかしそうに私を見上げた。私はどう反応すればいいか、とりあえず微笑んでみせると、
少女から渡された皿を、少女の前に差し出した。
「おなか空いてるの? 食べる?」
「あ、いや。さっき食べたばっかりなのに……。じゃあ、ちょっといただきますね。お話のおつまみに。無くなったらまたもってきますから」
 そう言って、焼き茄子をつまみながら少女は語った。
 私はそれをひとつ小説のように書いてみようと思う。

 ――――

 一昨年の夏、ここに高校の友人達と来たこの少女は、今年と同じようにバーベキューをして楽しんでいたという。
そのお友達グループの一人に瓦木紗綾という少女が居た。この話の主人公は、この瓦木紗綾だそうで、私は親しみを込めて紗綾と呼んで行こうと思う。
 紗綾たちがこのバンガローを訪れた時、そこにはもう一組のグループが逗留していた。それは大学生で、男が二人、女が二人いたそうだ。
無論この四人はそれぞれカップルになっていて、一組目を赤羽裕と間宮凛、二組目を倉吉泰と大庭翠と、仮名でこう呼ぶことにしよう。
 さて、その紗綾たちが夜、バーベキューをすることになった。バーベキュー場は管理棟にほど近い河原にあった。
紗綾たちが材料をかかえてやってくると、この大学生グループも考えることは同じで、先にバーベキューを楽しんでいた。
ただ、先にお風呂に入った紗綾たちと違って、この大学生グループは夕方からバーベキューをしていたものだから、
紗綾たちの始める頃には炭火も下火、楽しい時間ももうすぐ終わりの頃だったそうだ。
 しかしこの大学生たちのバーベキュー。メンバーが足りない。先ほどの名前で言うと、倉吉泰が欠けていた。
後々三人による証言では倉吉泰、このバーベキューのくだりになって急に体調を崩してしまったのだ。
それでも残りの三人はバーベキューを楽しんだようで、紗綾たちがバーベキューを始めた頃、赤羽裕は今私の座っているあたりでぼうっとしていて、
間宮凛はバーベキューの後片付け、大庭翠は彼氏の様子を見に向こう岸、四号バンガローに向かっているところだった。
 一方紗綾達はバーベキューに余念がない。このグループは女三人男一人と不釣り合いなもので、焼くのは男の仕事とし、
残り三人はジュース片手に騒いでいるだけだった。
 そんな喧騒が丁度切れたところで、川の向こうのほうから、バシャッと何かが水に叩きつけられる音がした。
「さーやん。何の音だろう?」
 紗綾の友人の一人、琴芝舞が言った。
「さあ、なんだろう、石でも落としたのかな」
 四人で聞き耳を立ててみるも、それ以降は何の音もしない。しかしそこにキラリと、向こう岸が光るのが見えた。
「今なんか、光ったよね」
 今度は紗綾が聞いた。すると今度は別の友人が言った。
「うん? どのへん?」
「いや、確かに光ったぞ。向こうの……あれはバンガローか?」
 ただ一人の男、黒崎浩輔がそう言った。
「ああ、そういえば向こうにもバンガローあったっけ」
 舞がそう言っているところに、向こう岸から大庭翠が帰ってきた。
「ごめん、凛。あとはやるから」
「ああ、翠、どうだった? 泰くん、ちょっとはよくなったって?」
「ううん、まだ辛そうで。もうちょっと寝てるって」
「傍にいてあげた方が良かったんじゃない? ほら、あのバンガローなんかいわくつきなんでしょ?」
「そんないわくなんて嘘よ。田舎の人が迷信深いだけ。そんなことより後片付けしないと。凛に任せっぱなしは悪いし」
「そんなこと言ったらあいつはどうよ。おぅい、裕君。ちょっとは手伝ってよ」
 裕君、と名前を呼ばれて、一人土手に座っていた赤羽裕はのっそりと腰を上げるとひょこひょこと河原に降りてきた。
「なんだい。そりゃ頼まれりゃやってやるさ」
「なによ、言わなくても手伝ってよ」
 と、間宮凛は不満たらたらである。
「非協力的な亭主は大変よ」
 その横で大庭翠が笑うと、赤羽裕は苦笑して、
「そりゃ悪かったな」
 と、取ってつけたような詫び文を入れると、しぶしぶ後片づけに加わった。
 そういった寸劇に耳を傾けていたのは紗綾一人だけで、あとの三人は水の音や対岸の光のことは忘れて、再びバーベキューに専念していたという。

 バーベキューも終わると、紗綾たちは自分たちが炭臭くなっていることに気がついた。結局もう一回お風呂に行くことにした。
女の子三人、男一人をボディーガードにしてお風呂につくと、脱衣所では丁度、大庭翠と間宮凛が風呂をあがってきたところであった。
「ねぇ、凛、いいかな」
「そりゃ仕方ないじゃない。一人は怖いでしょ、おいでよ」
「うん、ありがとう」
「でも泰君どこ行ったんだろうね? こんな可愛い彼女を置いてってさ」
 しかしそれに対する大庭翠の返事はなかった。
 紗綾はもちろん、舞たちもこの二人がバーベキューをしていたあの二人だとは気付いていたのだが、特に気にすることも無く、
さっさと浴場に入っていった。紗綾だけがちょっと気になる様子で、なかなか中に入ろうとしなかった。
しかし大庭翠と間宮凛、あれ以来会話も無く、ただ黙々と髪を乾かしている。それは自分に対する遠慮なのか。
紗綾はそう思うとちょっと恥ずかしくなって、そそくさと浴場の扉を開けた。
「さっきの人たちどうしたんだろうね?」
 石造りの露天風呂、湯船につかりながら紗綾は舞に聞いた。舞は頭にタオルを乗せながら夜空を眺めている。湯煙が天に舞い上がってゆく。
「ん、さっきの人たちがどうしたのさ?」
「なんか、彼氏が一人行方不明なのかな? どっか行っちゃったみたいよ」
「へぇ」
「へぇってなにさ」
「それしか感想持てないよ。大体そんな聞き耳立てるのはよくないよ、さーやん」
 友人にそう諭されて、紗綾はぶくぶくと湯船に沈んだ。確かにそうかもしれない。それでも、気になるものは仕方がないのだ。
息苦しくなって、紗綾は顔をあげた。舞は相変わらず空を見上げている。

 その晩、紗綾はなかなか寝付けなかったという。

 翌朝、ふと目がさめてみると何やら外が騒がしい。しばらくそのままウトウトとしていたら、そこに遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
紗綾はそれが目覚ましであったかのように飛び起きると、ベランダのカーテンを開けた。
それは丁度川を挟んで四号バンガローと対称の作りになっているから、川向こうが良く見えた。
 そこに一台のパトカーが止まった。ちょっと視線を横にずらすと橋が見える。橋のうえからは人が何人か下を覗き込んでいる。
と、パトカーから降りたスーツの男が駆けてきて、その人ごみを分けるように入ると、他の人と同じように下を覗きこんだ。
 どうしたものだろう。
 紗綾も橋の下に視線をやった。何かが浮かんでいる。
 何だろう……?
 それが何か認識した途端、紗綾の目はその物体に釘付けになってしまった。
 人が浮いているのだ。

 ――――

「それで私たちは彼女に叩き起こされて、野次馬として現場に行ったんです。でも彼女だけは別の目的を持っていたんです」
 少女はそう言うとにっこり笑った。
「別の目的?」
「ええ、そう。彼女はね、実は探偵さんだったんです。高校生探偵っていうかな。それまでもいくつもの事件に巻き込まれては解決してきた。
探偵気取りの女の子だったんですよ」

 ぐぅ。

 私は再び少女と顔を見合わせた。少女はそれまでの得意そうな顔を崩し、恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。
「よく鳴りますね」
 私がそう言って皿を差し出すと、少女は申し訳なさそうに肉をつまんだ。

 ――――

 現場についてみると、警察が橋の周りを封鎖する所だった。さすがに女子だから、そういう興味をもっていた紗綾以外、下を覗きこむものは居なかった。
「君たち、ここに泊まっていたのか」
 橋の周りでうろうろしていると、スーツ姿の男が近寄ってきた。紗綾は経験上この人が担当の刑事だと分かったから、昨夜の顛末を語って聞かせた。
すると刑事は、
「ああ、その話は他の関係者からも聞いている。もう一回確認するが、水の音がしてちょっとしてから向こう岸で光が見えたんだね」
 紗綾たちはそれに頷いた。
「それで、どのあたりが光っていたか覚えているかな?」
「それは、あのバンガローの辺りだったと思います」
「なるほど。それで、その光の後に誰か向こう岸に渡って行った人はいるかな?」
 これは紗綾たちがバーベキューをしていた対岸で聞かれたことだから、つまり、四号バンガローからバーベキュー場に向かってきた人が居たか、
という質問である。
「それなら、その光のすぐ後に女の人がやってきましたよ」
 と、言うのはもう一人の友人である。彼女の言葉に舞も紗綾も首を縦にした。
「それは光ってからどのぐらいあとだい?」
「すぐだったと思います。十秒、そんなところかな」
 舞がそう言うと、刑事はウムと唸った。
「十秒じゃ橋は渡れん……」
「刑事さん。一体何があったんですか? さっき向こう岸から見たら、なにか橋の下に浮いてるように見えたんですけど」
 黙った刑事に対して、紗綾はあえて少し怯えたように、さりとて好奇心を忘れぬような口調でそう話しかけた。これがうまく当たったのである。
「ああ、どうせ知れることだが。昨日バーベキューをしていたグループを知っているかな? そう、その大学生の四人なんだが、その一人がな……」
「ひょっとして……亡くなったんですか?」
「ああ、そうだ。殺されてこの橋の下に浮いていたんだ。だから君たち、何か昨晩気になったことがあれば何でもいいから私に話してくれ」
「でも、そんな何か気になったことって言われても……。何かないんですか、これが知りたいとか、訊きたいとか……。
あ、でも捜査の秘密じゃ言えませんよね」
 紗綾のこの言葉は明らかに下心があった。しかし、証言者の言い分としてはなかなか適当なものではないか。何か思い出すきっかけが欲しい。
そこから紗綾は捜査上の情報を引き出そうとしていた。
「ウウム。そうだが、何かこう……。例えばその残りの三人がね、何か話しているのを見なかったかい?」
「それだったら、バーベキューが終わった後、お風呂にその女性二人が居ましたよ」
 舞が証言した。紗綾ももう一人の友人もそれに頷くと、刑事はそこに切り込んできた。
「何を話していたかな?」
「いや、その、どっちかの彼氏がどこかに行っちゃったみたいで、どこ行ったんだろうって。
だから、その時にはもう行方不明になっていたんじゃないですか?」
「ウム。それは分かっているんだな……。他になにか無いかな」
「ああ、そういえば、その水の音がした後、女の人が帰ってきてから向こうのグループはバーベキューの後片づけをしていたんですけど、
その時もう一人の女の人が言ったんですよ、『あのバンガローいわくつきだ』って。何かあるんですか?」
 と言うのは当然紗綾である。
「いわく……? 私はそんなこと聞いたことが無いが……」
 そこに一人、制服の警官が走ってきた。手には一冊のノートを持っている。
「山中警部、こ、こんなものが見つかりました」
「なに、どれだい」
 警官は手を震わせながらノートを開いて見せると、それの一節を読み上げた。
「淵の中に浮かんだその死体には解けた包帯が絡み付いていて……」
「包帯……川島君。このあたりの住人にその事件について聞いてくるんだ。急いで」
「はい」
 警官は敬礼をすると踵を返して走り去っていった。山中警部はその背を見送ると、もう一度ノートに目を落とした。
「警部さん。何があったんですか」
 紗綾の言葉に山中警部は顔をあげた。
「ああ、君たち。なかなか気が利いてるじゃないか。細かい所をよく覚えてくれている。君たち、まだこの下には遺体が浮かんでいるんだが、
それを見てみる勇気はあるか?」
 山中警部は目を光らせた。紗綾は決心したように頷いて見せると、恐る恐る端から身を乗り出した。一秒、二秒、沈黙が続いた。
十秒ほどして、紗綾は橋のうえに立ち直ると、山中警部を見て言った。
「先ほどあの警察の方、『包帯が絡み付いて』って仰ってましたよね」
 山中警部はただその言葉に頷いた。しかし紗綾はその方を向いていない。川の上流のほうに顔を向けている。
「ということは、この事件はそこに書かれた内容と似ている、と」
 再び山中警部は頷いた。
「警部さん。ぜひ、そのノートを見せて頂けませんか」
 紗綾の言葉に山中警部はニヤリと笑った。
「なるほど、やっぱり君はただの野次馬じゃないようだな。なかなか細かい所を観察しておる。それに、私から何か聞きだそうとしているようにも見える」
 川上から吹く風が紗綾の髪をなびかせた。
「君はいったい何者だ。我々の味方か、敵か?」
 その瞬間、若い山中警部の瞳は鋭く光っていた。もし紗綾が今山中警部と目を合わせていたら、もし人の視線が人を焼き殺すなら、
紗綾はたちまち燃え上っていただろう。しかし紗綾はその視線に対し、あくまで冷静であった。
「気になることがあったら、解決してしまう性質なんです」
 その言葉に山中警部の口角が上がった。
「なるほど、じゃあこの事件も解決したいと」
 紗綾は無言のまま縦に首を振ると、ようやく山中警部の方に体を向けた。
「おもしろい。やりたきゃやればいい。ただ、俺の邪魔をするなよ」
 山中警部は紗綾にノートを差し出した。

 ――――

「そのノートがあなたが読んだ、包帯男と美人の連れ添いの話だったんです」
「なるほど、それじゃあ、いまあなたが語っている事件とは別に、あのノートに書かれた事件があるということなんですね」
 少女は私の言葉に微笑んだ。その表情からは、その意味するところが読めなかった。
「つまり、あなたの語る一昨年の事件は、過去に起きた事件の見立て殺人だったと……」

 ぐぅ。

 私は無言で皿を差し出した。少女はもう顔を赤らめることも無く、カボチャをつまんだ。

 ――――

 こうして活動を山中警部に認められると、紗綾はまず現場に立ち入った。バンガローの中は今も当時も変わらず、
最低限の家具しか置いていなかったという。ただ、遺留品を示す札があちこちに立てられているのが凶事の後を物語っていた。
テラスに出てみると、向こう岸のバーベキュー場が良く見える。
紗綾は手の届く木から一枚の葉をちぎり取ると、下に落としてみた。葉はらせんを描くようにまだ死体の浮いているあの淵へと流れて行った。
このテラスから死体を落としても結果は同じではないか。紗綾はもう一枚葉を流すと四号バンガローを後にした。
 次に紗綾が行ったのは関係者への聴き取りである。
 この聴き取り、まず初めに昨夜のバーベキュー場に呼ばれたのは大庭翠だった。大庭翠は恋人の死に直面して涙を流したようだが、
今はもう落ち着いていた。しかしそれでも悲しみはぬぐえず、昨夜お風呂で見た時からいっぺんに年を取ったように見えた。
「それじゃああなたがお見舞いに行ったときにはまだ泰さんは生きていたんですね」
「はい。具合が悪そうで、うなされていましたけど」
「それであなたが四号バンガローを後にして、橋を渡っている時に何かありませんでした?」
「そういえば、むこう、丁度バンガローのほうで何か水に落ちる音がしました。それは、あなた達も聞いたんじゃありませんか?」
「確かに聞こえましたよ。それでその後バンガローのほうで光が見えて、すぐ翠さんはバーベキュー場に現れましたよね」
「ええ」
「でも、翠さん。私たちあなたが橋を渡っていることに気がつかなかったんですよ。だから正直言うとびっくりしちゃって。
懐中電灯とか、灯りは持ってなかったんですか?」
「ええ、そうです。壊れちゃったから、持っていてもしょうがないって思って、それに向こうからこっちまではそんなに遠くないし。
だから懐中電灯も、明かりも持たず行ったんです」
「それで、泰さんが居なくなったのに気付いたのは?」
「バーベキューが終わった後で、バンガローに戻ると布団があるだけで泰君は……、そのときにはもうひょっとして……」
 大庭翠はそこまで口にすると顔を伏してしまった。
「そうですか。それまでの間に、向こう岸に誰かが渡ったのを見ませんか?」
「それは分からないですけど……」
「なるほど、わかりました。それじゃあ次、間宮凛さんを呼んで来てもらえますか?」
 大庭翠への質問は以上であった。これも、恋人を失った彼女への配慮だったのだろう。
 次に呼ばれてやってきた間宮凛も、大庭翠ほどではないがどこか憔悴した様子であった。
「間宮さん。大庭さんはあの通りなので、あまり深い話はできなかったんですけど、その分、いろいろお聞きしていいですか?」
「は、はぁ」
 間宮の顔には明らかに怯えの色があった。お世辞にも美しいとは言い難い。しかし色の白いは七難隠すという。
ただ今はその色の白さも白を通り越して青白いとも言えるほどだった。
「まず、泰さんが体調を崩したっていうの、一体いつごろからなんですか?」
「それは、その日のお昼過ぎからです。昨日は朝からサイクリングで、お昼を食べた後こっちに戻って来る途中からちょっと気分が悪いって」
「お昼は皆さん何を?」
「道中の道の駅でラーメンを」
「それは皆さん食べたんですね?」
「はい」
「なるほど、じゃあ次なんですけど、昨晩お風呂でお会いしましたよね。翠さんと何か話してましたよね?」
 その刹那、間宮凛の眉間に皺が寄った。聞き耳を立てていたことを責めるような目つきに、紗綾は少し申し訳なく思ったが、
これも仕事と割り切って表情には出さなかった。間宮凛もすぐさまその表情を取り繕うと紗綾の質問に答えた。
「ああ、それなら、泰君が居なくなっちゃって。それで、あのバンガローは昔事件があったとか……。怖いって翠が言うから、
じゃあ今日は三人一緒に寝ようかって話になったんです」
「凛さんと裕さんはこっち岸のバンガローなんですね?」
「はぁ、そうです。向こうのバンガローが一つ格安だったから、むこうとこっちを一つずつ取って、みんなで割り勘したんです」
「そうですか……。ところで、こちらには初めてきたんですか?」
「いや、それは赤羽君……あ、裕君は違うんじゃないかな。このあたり詳しかったし、そう、このバンガローを紹介してくれたのも彼なんです」
「なるほど。それじゃあ昨晩、バーベキューの時の話に移りますけど、翠さんは向こう岸に行くとき、懐中電灯をもって行かなかったんですか?」
「ええ、そうなんですよ。丁度バーベキューやろうって段になって壊れちゃって。まあ、安物だし」
「その懐中電灯はいつ買ったんです?」
「それは旅行の前に買いに行ったんです」
「で、今その懐中電灯は?」
「それは赤羽君が持ってるはずですよ」
「そうですか。それじゃあ、ちょっとあとでこっそりその懐中電灯もってきてくれますか?」
「ええ、こっそりです。ああ、そう、そういえば裕さん……赤羽さんはバーベキュー中向こう岸に渡りましたか?」
「いや、それはないです。初めに食材を持ってきた時だけです。その時は三人で泰君のお見舞いをして、それから食材を持って……」
「凛さんは向こう岸には?」
「いえ、私ずっと網に付きっきりだったからそんな余裕はないですし、私が向こう岸に行くのは翠に悪いじゃないですか。
彼氏の所には彼女に行ってもらうべきでしょう」
「ああ、たしかに。それで、赤羽さんは焼く係はやってないんですか?」
「そうです。赤羽君料理できないんで、いつも私がやってあげるんです。だから彼、食べたいだけ食べると終わりで、土手に座って空を見てるって」
「それで一人離れていたんですね。片づけの時まで」
「赤羽君、相当の面倒くさがり屋だから。いつも私に任せるんですよ。手伝ってっていうと嫌な顔するんです」
「なるほど。それは苦労しますね。ああ、それでじゃあ、赤羽さんを呼んできてもらえますか? そうだ、あんまり時間はないかもしれませんが、
その間に懐中電灯を探してもらえますか?」
「あ、はい。わかりました」
 間宮凛は不審そうに紗綾を一瞥すると、小走りでバンガローへと帰って行った。
 それから二分ほどしてようやく出てきたのが赤羽裕である。赤羽裕はポケットに手を突っ込んだまま、
土手を降りてくると、紗綾達の姿を見つけて舌打ちをした。
「赤羽さんですね」
「ああ、そうだが、何の用だ。警察ごっこか」
 なるほど、最初からいい印象はない。
「まあそんなところです」
「だったらそれは警察に聞いてくれ。さっきもう話したから」
「そうですか……。それじゃあ、無理には聞きませんよ。おっしゃる通り警察ごっこみたいなものですから」
「そうか、じゃあもういいな」
 赤羽裕としては早々に切り上げたいようで、そう言いながら半分腰を浮かせている。周りで見ていた舞もこれには苦笑いせざるを得なかった。
「ああ、でも一つだけ聞かせてください」
「何?」
「赤羽さん、ここに来るのは二度目だって凛さんからききましたけど、その時泊まったのって、ひょっとして四号バンガローじゃないですか? 
そうでないにしても、昔起きた包帯男の事件について、何か知りませんかね?」
 赤羽裕にとってこの質問は予想外だったらしい。ちょっと戸惑ったようで宙を仰いだ。
「ああ、前泊まったのはあのバンガローだよ。でもその噂は知らねぇな」
 赤羽裕はそう言い捨てるとそのままバンガローへと戻って行った。
「何あいつ、感じ悪い」
 赤羽裕がバンガローに入るのを見届けると、舞の口から本音が漏れた。
「まあ、ああいう男もいるよ」
「でも凛さんもよくあんなのについてゆくよね」
「そりゃ人の好みだから」
 紗綾と舞がああだこうだ、人の関係について言い合っていると、人のうわさをすれば影とやら、バンガローから間宮凛が飛び出してきた。
「ああ、凛さん。どうです、見つかりましたか」
「ええ、これです」
 そう言って凛が取り出したのは直径五センチほど。なかなかサイズのある赤い懐中電灯である。
「ちょっとこれ預かってもいいですよね」
「は、はぁ、まあ……」
「ありがとうございます。それじゃあもう戻って大丈夫ですよ」
 紗綾は早々に凛を返すと、しばらく懐中電灯をいじってから、ずっと聞き取りを退屈そうに聞いていた黒崎の前に立った。
「黒崎、これ直せる? 気を付けて分解してほしいの。できる?」
 紗綾に懐中電灯を差し出されて黒崎浩輔は何を感じ取ったのか、ひとつ身震いをすると、懐中電灯を受け取った。
 十秒ほど黒崎は懐中電灯をいじっていたが、すぐにくるくると筒をまわすとすっぽり懐中電灯の頭が取れた。
黒崎はそこから電池を取り出してハンカチの上に置くとその中をのぞき込んだ。
「壊れてないな」
「そう。じゃあどうして明かりがつかないの?」
 黒崎はそう言われると、もう一度懐中電灯の内部を検めた。それでも納得しかねるのか、次に電池に手を伸ばすと口元を綻ばせた。
「なんだ。接点にセロテープが張ってある」
「セロテープ? ちょっと見せて」
 黒崎から受け取った電池を見てみると、なるほど、たしかにプラス極側にセロハンテープが張ってある。
紗綾はそれを恐る恐るはがすと電池を黒崎に返した。
「それちょっと入れて、点くかどうか試してみて」
 黒崎が懐中電灯に電池を入れる間、紗綾はそのセロハンテープを透かしてにっこりと笑った。
 そこにはくっきりと人間の指紋がついていたのだ。

 ――――

「さて、これで聞き取りの話が終わりましたね。いやぁ、聞き取りっていうのは大変ですね。ずっと座っているだけなんですから」
「でも君はそれの一部始終をちゃんと聞いていたんだね?」
 少女は私の言葉に再び微笑むと言った。
「それはあとで彼女から聴いたんですよ。なんでわかったのって」
「なるほど、それに感心したのかい」
「そうそう、そうです」
 少女は微笑みながらそう言うと、一息おいて言葉を継いだ。
「それであなた、四号バンガローに泊まっているんですよね?」
「ああ、そうだが」
「じゃあこの話、どうですあなた犯人、分かりましたか?」
 それは私にとって青天の霹靂だった。私は今の今までこの話のメモに従事していた。だから、いきなりこのようななぞかけをされて戸惑ってしまった。
 しかし、このなぞかけは少女にとって当然の行動だったかもしれない。推理小説の解を知った人間が得意になってそれを話すのと同じ感情なのだろう。
まして彼女にとってこれは自分の身近に起きた事件なのだから。
「いやぁ、恥ずかしながら。ちょっと待ってほしいかな」
「あら、そうですか」
 少女は悪戯っぽく笑った。

 ぐぅ。

「お肉もう一枚いただいていいですか」
 私はメモに目を落としながら頷くと皿を差し出した。

 ――――

「それで、瓦木君。俺らを集めたということは真相がわかったということかい?」
 バーベキュー場に集められた大学生グループ三人と紗綾の友人たち、そして数人の警官を前にして山中警部が言った。
その表情はいかにも愉快と言ったもので、紗綾のような素人探偵とは時として敵になるこの職ながら、この場を楽しんでいるようにさえ見えた。
「ええ、大体。というのも、動機はあくまで推測ですから。山中警部、それはあなたが調べてくださいね」
 紗綾はそう言うとくるりと大学生三人の方を振り返って一礼した。一礼すると、今度はその辺にある椅子に座って三人の顔を見回した。
三人が三人とも椅子に座っている。右から赤羽裕、大庭翠、間宮凛と並んでいる。一番右の赤羽裕は相変わらず不貞腐れて腕組み足組み、
紗綾とは顔も合わせようとしない。隣の大庭翠は俯いて、しきりにスカートの端をいじっている。最後に間宮凛は西洋のウィッチのように憔悴して、
落ち窪んだ眼で周りを見回していた。
 紗綾は三人の様子を見ると、いまさらのようにウームと唸って手を組んで体を前後に揺らした。ゆっくりと体を二、三往復すると、動きを止めた。
「一説によると、犯罪というのはその犯人の性格が現れるそうです」
 瞳をゆっくりと見開くと、紗綾は言葉を継いだ。
「赤羽さん。向こう岸に渡るのすら面倒だったんですね」
 その言葉を聞いた刹那、赤羽裕の表情が固まった。スローモーションのように、ゆっくり赤羽裕は首をまわすと、紗綾とようやく目が合った。
「そう。もしあなたが泰さんを手に掛ければ、あなたのその手で首を絞めさえすれば、女性の彼女には犯行ができないとなったでしょう。
なのにあなたはただ合図となる水の音を聞いて、懐中電灯を振っただけ。でもそれ、彼女さんに見られてましたよ。ねぇ、凛さん。違いますか?」
 一同の視線が間宮凛に向けられた。
「違う、私は……」
 間宮凛は立ち上がると、そこに立つ警部を、警官を見回した。
「見なかった、と仰るんですね。いいでしょう所詮それは私の推測です。見なかったことにしても結果は同じなんですから。ねぇ、大庭さん」
 呼びかけられて大庭は肩を震わせた。
「私は不思議でならなかったんですよ。あなたがあの橋を渡った時、懐中電灯をもって行かなかった理由が。だって、このあたりの橋は欄干も無いんですよ。
例え月明かりがあったとしても踏みはずせば川の中。こんな危険な道を夜に電気もつけずに歩くのはよほどの理由があるはずですね」
「そ、それは懐中電灯が壊れたから……」
 大庭翠の声は震えていた。
「その答え、変だと思いませんか」
「え?」
「だって今はほら、携帯電話にライト機能がついているじゃないですか。懐中電灯に固執することはないわけです。携帯電話のライト機能を使いました、
と言えばいい話じゃないですか。それなのにあなたは頑なに電気をつけなかったことを強調する。
何故? つまりあなたは明かりを使っちゃいけない理由があった。だって、あなたが明かりを使ったら、四号バンガローに明かりが見えたという、
あなたの犯行不可能性が崩れてしまいますからね」
「しかし、大庭翠がバーベキュー場に現れたのは光が見えてからすぐだったと言ったのは、瓦木君、君じゃないか」
「山中警部。そこがトリックですよ。私さっき赤羽さんに言いましたね、『あなたは合図となる水の音を聞いて、懐中電灯を振っただけ』って」
「君は赤羽君が共犯だというのか。しかし赤羽君はこちら側にいたんだぞ。光が見えたのは対岸。こちらで懐中電灯を振っても意味がないじゃないか」
「いや、意味ありますよ」
「何?」
 しかし紗綾は眉一つ動かさなかった。
「だって、四号バンガローの入り口横には洗面台の上に大きな鏡があるじゃないですか。あれに反射した光を私たちは見たんです。
この光が見えて数秒内に翠さんがバーベキュー場に戻ってきたら、翠さんに犯行は不可能ですね。でもそのアリバイを成立させるためには
光の見えるタイミングが重要になる。そこで翠さん、あなたは橋のうえから大きな石を蹴り落とした。その音を合図に共犯者が懐中電灯を振る。
あの水の音はそのタイミングを計る目的があった。その上、音を立てることでバーベキュー場にいる人たちの注意を対岸に向けることもできる。
うまく注意をひけなかった場合は懐中電灯を振らなければいい。勿論この場合、どうやってアリバイを成立させるか、その方策も用意していたのでしょう。
バーベキュー場側からの明かりが見えるのは、成功した場合、橋を渡っている翠さん、あなただけですね。
共犯者からの明かりが見えなければ次の手段に移る。共犯者が懐中電灯を振ることはうまくいったか否かの合図にもなるということ。
いや、これは私の考えすぎかもしれませんけどね」
 紗綾はそう言うと立ち上がって大庭の前にしゃがみこんだ。
「ねえ、大庭さん。どうです? 私の言ったこと、間違ってますか?」
 覗き込んでも大庭の表情は読み取れなかった。ただ唯一見える口元には食いしばる歯が。何かを耐えているようにさえ見えた。
「違う! あ、あの女よ。あの、包帯男を殺したあの女が泰君を殺したのよ!」
 それが大庭の限界だったのだろう。大庭はそう言うと大きく咳き込んだ。しかし紗綾は同情するどころか、呆れたように首を振った。
「その言い訳は聞いてあきれますよ。山中警部、当然調べましたよね、実際そういう事件があったか」
「あ、ああ」
「どうです、そんな事件実際にありましたか?」
「いや……確かに亡くなった男はいたそうだが、あの話のように包帯は巻いていなかったし、男の一人旅だった。当時の調書も調べたから、これは確実だ」
「そうですか。ということは……、ねぇ、大庭さん。その包帯男の話も二人の共作でしょう? 今回の事件で泰さんに包帯を巻きつけ流す。
それが見つかって、あのノートの記述が発見されれば、その噂にある女が泰さんを殺したっていうシナリオを作れます。
そういう記述のあるノートを置いておけば、逆に噂として広げていくことができる。でもそれは、警察の捜査を見くびりすぎですよ」
 紗綾はそこまでいうと立ち上がった。その目は壊れたモノを見るように今にも目を背けたい、そんな目であった。
「そもそも、大庭さん。ダメですよ。人殺しっていう一世一代の大仕事になって、自ら手を下さないような男につぎ込んじゃあね」
 紗綾がそう言った途端、大庭翠の口元から嗚咽が漏れてきた。しかし紗綾の表情は変らなかった。
「それに赤羽さんはまだ一言も返してこない。このままじゃ、あなた一人の罪にされかねない……。ねぇ赤羽さん、なんか言ったらどうなんです?」
 紗綾はそう言うと赤羽の方を向いた。赤羽もそれを予期していたようで、ぐっと首をこちらに捩じるとにやりと笑った。
「ああ、そうだな。俺がその光を当てたって証拠はどこにもないからな。
いや、ひょっとすると偶然懐中電灯の光がそのバンガローの鏡とやらに当たっちまったのかもしれない」
 大庭の嗚咽が止んだ。
「あの光のアリバイさえ解けちまえば、こいつには犯行時刻のアリバイは無くなるからな。こいつ単独の犯行じゃないのか?」
 それは冷酷な一言だった。その刹那大庭を殺気が包んだようにも見えた。誰からも彼女の瞳は見えなかったが、
実際、この時紗綾が大庭の肩に手を置かなければ、どうなっていたかは分からなかっただろう。
「大庭さん。安心してください。この畜生も罪に問われますから」
 紗綾の言葉に大庭が顔をあげた。泣きはらした目は真っ赤で、顔も紅く染まっていた。紗綾はそれを見ると、優しく微笑んで、頷いて見せた。
「赤羽さん。そんな無理に懐中電灯にこだわったのが仇になりましたね。懐中電灯が壊れた。それも凛さんが買ってきた懐中電灯が壊れたとなると、
当然凛さんも確かめるでしょうね。でも、その懐中電灯はトリックに必要だった。とすると、壊れたように見えてもすぐに使えるように戻す必要がある。
そこであなたは電池の端子にテープを貼った。そしてトリックを実行した後は、やっぱり懐中電灯が点かないようにしないといけない。
だからもう一度テープを貼った。さっさと壊してしまえばよかったのに……」
 紗綾はそう言いながらポケットから一枚の黒い紙を取り出した。
「電池の端子についていたテープ。そこに指紋が付いて……」
 その瞬間、紗綾は自分の頭上を何かが掠めるのを感じた。
「チクショウ!」
 実にそれは危ない、瀬戸際だった。あとすこし紗綾の屈むのが遅れたら、この男の投げた石が紗綾の頭に命中する所であった。
紗綾はゆっくりと姿勢を戻すと、警官に組み敷かれた男を睨んだ。
「これがあなたの指紋ならば、少なくともあなたがこのトリックを実行しようとしたことが証明できますね。それと、凛さん」
 間宮凛に目を向けると、彼女もこの男の醜怪な面を見たのか、ただただ打ち震えることしかできずにいた。
「凛さん。こんな男を庇う必要があると思いますか? あなたは恋人として、この男の行動に注目していたから、光を振っていたのがこの男だと、
泰さんの殺害にこの男が加担していると気付いたんじゃないですか? この男と翠さんの関係にも、感づいていたんじゃないですか!」

 ――――

「なかなかそれはスリリングな場面でしたよ」
 少女はそう言うと、懐かしむように空を見上げた。
「じゃあ、紗綾さんの推理はやっぱり」
「ええ、大体あってました。計画は赤羽によるもの。赤羽としてはただ光を見せてアリバイを作るつもりだったんだけど、
それだけでは心配になった大庭がさまざまな作戦を練ったというわけです。あの夜三人で寝るというのも、
バーベキュー以降のアリバイを確実にする目的だったと言ってました。それにあの橋のうえからもし光が見えなかったら、
『あれはなんだろう』ってバンガローの方を指さし、騒ぐつもりだったそうです。彼女としては、そういう場合赤羽が協力してくれると思ったんでしょう。
でも実際のところ、赤羽は全く協力するつもりがなかったみたいです」
「でも、一体動機はなんだったんだい?」
「それもあとになって取り調べで判明しました。結局は、赤羽と大庭の交際、浮気から始まったんです。
大庭と赤羽が一緒になるには倉吉泰さんが邪魔になった。赤羽は大庭が熱をあげて倉吉泰さん殺害を持ちかけたと言っていたそうですが、
どうでしょうね、間宮凛さんも身の危険を感じてたって話です。
大庭にとっての恋人、倉吉さんが邪魔になるなら、赤羽にとっての間宮さんというのも邪魔になっていたんじゃないでしょうか? 
あと少し放っておいたら凛さんもあの二人の餌食になっていたかもしれません」
 それは実に恐ろしい推測であった。浮気。その為に二人の命が失われようとしていたのだ。私は慄然とした。
「そ、それで、あのノートを置いたのは?」
「赤羽ですよ。以前訪れた時に置いて行ったんですね。それ、証拠物件として押収されたんですけど、
あとから探してみたら何冊かあのバンガローにストックしていたみたいでいろいろなところから見つかりましたよ。
もしどこかで失くされてもいいようにそうした……、あなたが見つけたのはそのまま宿泊者の思い出ノートになった一冊でしょう。
結局この筆跡から赤羽にも十分計画性があったってことで罪は重くなりましたよ。その上、この男憎いことに精神鑑定まで持って行こうとした。
結局嘘だとばれてさらに重罪に。まあ当然の報いですね」
 この少女にしては珍しく。それは吐き捨てるような口調だった。当然の報い、少女はそれを言うと少し満足したのか、長く溜息をついた。
「先生。こんな話ですけど、参考になりました?」
 そう言う少女は告白の返事を待つ少女のように、不安そうで、脆そうで、そして可憐であった。
「はい。とてもいい参考になりましたよ。是非ともその話を書いてみたいです」
 少女は私の言葉に嬉しそうに目を瞑った。
「それは、光栄ですね」
 少女はそう言って立ち上がると、ぐっと伸びをした。
「それじゃあ先生。原稿の完成楽しみにしてますよ」
「あ、ちょっとまって!」
 足早に立ち去ろうとする、少女を私は呼び止めた。彼女の背景には星空が瞬いていた。
「君の名前は?」
 少女の顔は見えなかった。でも、彼女はきっと笑ったに違いない。
「瓦木 紗綾」






©2014 裃白沙