待合室

「そう、これは可能性の問題」
 紗綾は言った。ガラス越しの風景は白く霞んでいる。そこをほのかに橙色の街灯が彩り、明滅する信号の光と交錯している。
「可能性?」
 舞もぼんやりと遠い世界を見つめている。湿度の高い待合室。彼女の手に握られたお茶の缶から湯気が揺れのぼってゆく。
「あの列車がやってきたとき、私たち二両目の辺りで待ってたよね?」
「うん」
 地方都市Mの中心駅。あの列車が来た時を舞も思い返してみる。その路線は実に閑散としたローカル線だった。二両の列車。
所々薄汚れたカーテンが下がっている。くすんだ列車。
「それで、折り返しの準備になって、事件が発覚した」
 淡々と紗綾は語る。二両目で血を流している客。第一発見者の運転士。取り乱す光景。窓越しの声。全ては瞼に焼き付いている。
「で、事件に気付いた人が他に居なかったのか、問題になったよね」
 その言葉に頷くと、舞は緑茶に口を付けた。紗綾は言葉を継いだ。
「でも、その列車は遅れていて、大半の乗客は乗り換えに急いだ。だから結局証言はとれなかった」
 ぐぅ、とおなかが鳴る。舞は無言のままポケットからチョコを取り出すと、紗綾に手渡した。
「でも、誰一人として人が死んでいることに気付かなかったのは不自然だよね? それが全ての疑問の始まり。
思えば犯人はちょっと技巧を凝らしすぎたんだね」
 もらったチョコの銀紙を剥す音。一片のチョコが紗綾の口元に消えた。
「もう一度状況を整理してみようか。列車は二つの車を連結していたね。乗客は少なくて、乗務員も運転士しかいなかったね?」
 舞はそれに答えなかった。紗綾の好きなようにさせるのがいいと思ったのだろう。
「さて、誰も知らない間に人一人を殺すにはどうするか……。そりゃ誰もいない所で殺せばいいね。犯人以外の乗客が全員降りた後。
運転士は一両目にいるんだから気付かない」
 吐き出す息も白く、窓ガラスを再び曇らせる。時折、窓を揺さぶる風が高い不協和音を添える。
「でも、これだと被害者が犯人と二人きり、最後まで二両目に残らないといけない。でも被害者が居残るかはわからない。
そもそも二両目に乗るとも限らないし」
 窓越しに光の帯が過ぎる。久々の車が通った。テールライトが消えるのを見届けると、紗綾はもう一片チョコを口に運んだ。
「だから結局、可能性の問題ってこと。列車が到着した時、被害者を二両目に留めるよりも、列車の到着前に二両目で殺しておくのが楽だ。
でも、そうなると他の乗客が気付かないのが不自然。さて、この二つを解決するのは可能か……」
 しばしの沈黙が生じた。屋根から雪の滑り落ちる音が、ストーブの燃える音に混ざる。低く、静かに響く。
「可能だったのね」
 ようやく舞が口を開いた。対して紗綾は悲しそうに頷いた。雪が滑り落ちる。窓の外がさっと白く染まる。そのまま吹き散っていく。
「出発駅の時点で殺しておけばね。後ろの車両に『回送車両につき立入禁止』って札を提げておけば、他の乗客は入って来ない」
「でも」
「うん。もちろん反論も考えていたと思う。誰かにイタズラされたって言えばいい。だけど、その出発駅から乗っていた人間がいれば、
その時既にそういう札があったことを証言する人がいれば。それを提げる機会があるのは運転士だけ。結局、それが決め手になった」
 遠く踏切の音が聞こえてくる。紗綾は顔を上げると腕時計を眺めた。
「結局、アリバイ作りに技巧を凝らしたが故に己の首を絞めたわけ。中途半端に計画した犯罪ほど、破綻しやすいってこと」
 舞は勢いよく緑茶を流し込んだ。列車がやってくる。
「さあ、行こう」
 大きなバッグを背負って、扉を開けると、凍てついた風と共に雪が部屋の中に舞う。
窓の曇りが晴れたかと思うと、連なる山々が目の前に広がった。
「目的地はあの向こう?」
 顔を上げると、舞は頷いた。雪を舞い上げる列車。二人が乗り込むと、深く音を響かせ、この寒村の駅を発った。一路北国を目指し……。



©2012-2014 裃白沙